土曜日に、高校時代の同級生と食事にいってきた。
7年前、高校の同窓会幹事が回ってきたときに集まって以来である。
二人は同じ柔道部の主将と副将、もう一人はかれらと同じ中学のブラスバンドの男である。
同窓会幹事のときはあまり話せなかった。
柔道部の、当時の主将が僕を見るうち「おまえ変わったなあ」と幾度も言う。
「何も変わってないと思うんだけど」というと「高校生のときも明るかったけど、なんというか、垢抜けたっていうか」
果たして垢抜けただろうか、自分ではぜんぜん、変わっていないと思うけれど昔の友人知己たちは久しぶりに会うとみな「べつじん」と言う。
高校のときの写真をLINEで主将が送ってくれた。
卒業アルバムからのものだと記憶にある。
主将が当時を振り返って少し俯いた。
マネージャーの女子がいて、掃除をしてくれていたし、
道着を洗濯してくれていたと言う。
僕には洗濯してもらった記憶はなかった。
「でも全然感謝の言葉もかけなかったし、話しかけもしなかった」とつらそうに言う。
話しかけなかったのはたしかに、僕もそうだった。
高校は普通科と商業科に分かれていて、
別の学校みたいだったことを思いだす。
一生懸命マネージャーをしてくれてただに、それはないら、
ということを、二人で言った。
「謝りたい」と主将が将つぶやくのに僕も賛同すると、
僕は自分が痛烈に嫌になった。
精神的に幼稚だったと、今さらながら気付かされたのである。
自分の立ち居振る舞いが、映画化されて観たときにどう感じるだろう。
男が嫌がる女性をつけ回せばストーカーであり、
男が嫌がる男性をつけまわせば、悪事を企んでいるに違いないと思うだろう。
徒党を組んで、一人の一見弱そうな男を、女をいじめる。
そんな人が主人公だったら、それは悪漢映画となるのではないか。
すなわち観客は悪漢が転落していくところを喜ぶのである。
凋落する男になりたいか。
いっときの「面白え」という感覚を味わう。
それは積み重なれば人間性を失っていくことだと思う。
日中、人道にもとる父親や母親は暴君と呼ばれるだろう。
そんな男や女はたとえ家庭人としては及第点だとしても、
いつか馬脚を現さないだろうか。
不満分子をあぶり出して弾圧したら、組織が浄化されるわけではないのだ。
誰かしらは「不満分子」と決めつけるけれど、
その人たちは実際には「悲嘆天使」なんだろうと僕は想像する。
他人が涙を流すのを見たら「不平を言っている」と、故
意に曲解してみせるのはかっこうよくもなんともない。
良心に照らして、今している言動は幼稚ではないだろうかと疑いたい。
昼間の父や母を見たら、子どもは真似て大きくなるだろう。
先人は同じことをしてきたと言い訳するかもしれないが、
僕たちは悪しき先人との繋がりは断ち切らなければならないのだ。
次世代へ流れ入らせることなく、両手を広げて立ちはだかって。
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